LOGIN
「…………っ」
とめどなく涙が溢れる。
今は夜中。家族はもう寝静まっている。泣き声を漏らさないように、そっとバスタオルで顔を拭いた。バスタオルはびしょ濡れである。
パソコンの画面には、三人の親子が映っている。ギャルゲーの主人公であるリュークとメインヒロインのルリアン。そして二人の子供だ。
「幸せにな……」
つい声が漏れた。まぁ、これくらいじゃ隣の部屋の兄貴も起きないだろう。
エンディング曲『あなたに会える日まで』を聴きながら、俺はスマホを手に取った。このギャルゲーを勧めてくれた友人にメッセージを送るためだ。
『攻略した。最高だよ。泣きゲー界の神だ。マジで泣いた。感動だ。曲も神がかってるな。これから曲を聞くだけで泣きそうになる自信がある。ただ、全員攻略しないとこのアナザーストーリーが解放されないのだけは辛いな。お前が勧めるから頑張ったけど――』
長すぎるか。
長すぎるな。
冷静になり、「全員攻略しないと」の下りからは消して送信した。気の合う友人には、つい長文で送ってしまう。我ながらウザくて引かれそうだという自覚はあるので控えめにはしているつもりだ。
俺は陰キャだ。常にクラスで気の合うのは一人か二人。感染症が流行る時期は誰とも話せない日がある。だから、どうか友人が今日も健康でありますようにといつも祈っている。
ただ、挨拶くらいは普通にする。社会不適合者ではない。学校外で誰かと遊ぶことがないだけだ。「うぇーい」とはしゃぐ陽キャなクラスメイトたちを、羨ましさを隠して薄ら笑いで見ている側だ。
「でも、俺にはゲームがある。語り合える友人もいる」
スマホに通知がきた。友人もどうやら起きていたらしい。
『お、終わったか。最高だろ。でもお前は、ラビッツアフターが欲しいんだよな。分かる分かる』
メッセージを読むなり頷いて、『それな』のスタンプを押す。俺がもっとも好きなのはルリアンではなくラビッツ・ロマンシカだ。
今見終わったアナザーストーリーは、リュークとルリアンが両想いになってからの話。このメーカーでは、メインではない他のヒロインとのイチャイチャなその後の話を「〇〇アフター」という商品名で発売することがある。
ただ、ラビッツの人気は低いんだよな……。発売される可能性はおそらくゼロだろう。
最後にラビッツを見てから寝ようと、回想画面からオープニング曲を再生した。
冬の学園がモノクロから少しずつ色づく。
雪がひとひら。
またひとひら。
光の球が空へと昇っていく。
透明感のある歌声に命が吹き込まれるように、タイトルが表示される。
『星が空へと昇る世界で 〜Last Memory〜』
レッドブラウンの髪と紫の瞳のラビッツ・ロマンシカが名前と共に現れ、台詞が表示される――。
『あの日の約束、覚えてる?』
ラビたーん!!!
その神台詞に、もう一度涙がこぼれた。まさかその台詞が、あのアナザーストーリーに繋がっているとはな!
リュークとルリアン、そしてリュークの大親友であるニコラとラビッツがいてこそのアナザーストーリーのあのラストだ。
うぉぉぉぉぉ!!!
ラビッツへの愛を深くしながらヘッドホンを置き、パソコンの電源を落とす。濡れたバスタオルとスマホを持って布団へと潜り込み、設定資料集を電子マネーでポチッと購入した。
――主人公の親友であるニコラ・スタッドボルトに転生するのは、この日から一週間後のことである。
◆
ついにこの日が来たか。
王立魔法学園の入学式だ。
日本のゲームだからか、桜が咲き乱れている。俺の頭にはジャパリス国から輸入された花だという、前世とはまったく違う知識が埋め込まれている。
前世では、トラックに轢かれそうな子供を助けてあの世行き――というベタな最期を迎え、気がついたらこの世界にいた。俺を育ててくれた両親にも、クラスでたった一人の友人にも申し訳ない。せめて、助けたあの子が無事でいてくれたらと願う。
この半年間、大変だった。
ニコラの身分は王子。
記憶を引き継いでいるとはいえ、混乱していた俺を皆が支えてくれた。人前で話す訓練などのスパルタ再教育により、やっとニコラらしさが板についてきた。
公では王子らしく振る舞うものの、プライベートではお調子者のおバカキャラ。「泥船に乗った気で俺様に任せとけ!」が口癖の憎めない奴。それがニコラだ。
――そして今日、あのゲームの舞台が始まる!
陰キャな俺とはオサラバだ。誰も前世の俺を知らないこの世界で、リア充としての日々が幕を開ける。
今日が俺の転生デビュー初日だ!
期待に胸を膨らませ――といきたいところだが、足がガクブルだ。王子としての訓練とは違う緊張感がある。なにせここには、最推しのラビッツがいるのだから。
「おいおいニコラ、顔が真っ青じゃねーか。大丈夫かよ」
「大丈夫だ。俺は王子、問題ない。俺は王子俺は王子俺は王子……」
「全然大丈夫じゃねーだろっ」
ポンッと俺の頭を小突いたのは、幼馴染で親友の騎士、リューク・ダイバーン。青い髪と瞳でクールに見せている。飄々としてるくせに仲間思いの、かっこいい奴だ。俺の悪ノリにも付き合ってくれる。
辺境伯家から預かる形で、王宮で仲よく過ごしていた。ここ何年かはリュークだけ騎士学校に入っていたのでしばらく会ってはいなかったものの、俺専属の護衛になるべき才能ある人材として育てられ、悪い扱いはされていない。本人は三男だから気楽でいいと呑気にしている。
そして――来るぞ。
俺の最推しが、もうすぐ!!!
会える日を待ち望んでいた、ラビッツ・ロマンシカ。平民出のルリアン・ウィービングと対をなす悪役令嬢。俺の婚約者なのにリュークの攻略対象であるせいで、一番不人気だった。
リュークに惹かれちゃダメ、ニコラの婚約者なんだからと切ない乙女心や葛藤や苦悩を抱えながらもツンツンしているところが激萌えなのだ。
今の俺の立場からすると複雑だが……。
そろそろだ!
そろそろ来るはずだ!
この世界では、ジャパリス国から輸入された悪役令嬢小説がなぜか流行っている。ゲーム制作者の遊び心だろう。ゲームの序盤でラビッツはルリアンにみみっちい嫌がらせをするので、小説になぞらえて「悪役令嬢」とみんなに言われてしまう。オープニングでは名前の上に『ツンデレ悪役令嬢』という異名が書かれていた。
まだ学園生活は始まっていないので、それを知っているのは俺だけだ。
今の俺はゲームとは違う。ゲームのラビッツルートのように、二人のキューピッドになるつもりはない。
どうにか転生デビューを果たし、ラビッツの心を俺に向けてみせる……!
「陰キャの俺には厳しいぜ……」
「昔の威勢はどうしたんだよ」
「俺様はナイーブなんだ」
「しばらく見ない間に、小さい男になっちまったなぁ」
「平均身長だよ!」
正直、ラビッツの婚約者であることを除けば、モブがよかった気持ちもある。王子という身分はメンタル面でもハードルが高い。半年間の訓練で様にはなってきたものの、楽じゃない。
しかし!
誰も俺を知らない世界でやり直しができるのは大きい!
「相変わらずのバカ王子っぷりね、ニコラ。リューク様もお変わりなさそうで」
来ったぁぁぁ!!
悪役令嬢、ラビッツ・ロマンシカ!
薔薇を形どったバレッタでサイドの髪を後ろで留めている。ゲームと同じく鮮やかなレッドブラウンの髪だ。ここでもバレッタから兎耳が生えているのはギャルゲー仕様だろう。
俺たち三人は幼馴染。ずっと仲よしではあるものの、俺とラビッツが婚約中で、ラビッツはリュークに恋をしているというなんともいえない三角関係だ。
「久しぶりだな。俺とリュークで扱いが違わないか?」
「あなたにはこれでいいでしょう。わざわざ丁寧にする必要ある?」
「婚約者なのに?」
「だからでしょう。私だって、婚約者じゃなかったらもっと敬意を払っているわよ」
「ひっでーなー」
前世でこんなに口の悪い貴族は創作ですらなかなかないだろうが……ここはギャルゲーの世界。制作者の趣味の世界だ。思う存分、ツンツンを味わえる。
「未だにプライベートでは言葉遣いが悪いのね」
「公私混同はよくねーよ」
「ふん。バカ王子!」
よし、いつも通りの会話だ。しばらくラビッツとも会っていなかったからな。挙動不審にならず、記憶の通りに振る舞えてよかった。ラビッツもツンツンしてくれている。
……でもな。
デレも見たい!
生でデレも見たいんだよ!
「リューク様も、えっと。ごきげんよう。久しぶりね。元気だった?」
頼むー。そんな恋する乙女みたいな顔を親友に向けないでくれー。しょっぱなから心が折れる……。
「水臭ぇよ、ラビッツ。元気そうだな。昔みたいにリュークって呼んでくれよ。調子が出ないぜ」
「そう呼んでいいならそうするわ。すごく逞しくなったわね。騎士学校も卒業したのよね」
「まぁな」
なんだよ、この俺だけ除け者みたいないい雰囲気は! ていうか、ゲームでもこんな会話聞いたな!?
いや、しかし前世に比べれば童顔ではあるものの俺はかなりのイケメンだ。金髪碧眼で顔はいい。おバカキャラだったし、ゲームのオープニングでも『お調子者なおバカ王子』という異名が表示されていたが、顔はいいんだ! 自信を持て、俺!
「じゃ、先に行くわね」
今は入学式のために門をくぐってホールへと歩いているところだ。桜の花びらが風に揺れる。柔らかい春の空気が俺たちを包む。
「待てよ、ラビッツ」
俺は彼女を呼び止めた。
「なに?」
「せっかく学園で一緒に過ごせるんだしさ、たくさん話そうぜ」
「……あんたとは、いつか嫌でもたくさん話さなきゃならない日がくるじゃない」
結婚したらってことか。ガックリくるな。彼女の心を俺に向けるなんて、できるのだろうか。陰キャだった俺なんかに。
「ねぇ」
ふふっと彼女が俺たちに意味深に微笑んだ。風に舞い散る花びらの中に佇む彼女はどこか幻想的だ。
――俺は知っている、このシーンを。
澄んだ歌声がどこからか聞こえるようだ。あのオープニング曲『はじまりの|詩《うた》』は最高だった。せっかくのゲーム世界なんだから、音楽も流れてほしい。
さっきまでのツンツンな態度が嘘のような柔らかい笑みを浮かべて、彼女が小さく俺たちに向けて呟く。俺はその言葉も知っている。
「あの日の約束、覚えてる?」
きたー!
オープニング曲のキャラ紹介でも使われていた神台詞きたー!
ラビたん!
ラビたん!
ラビたん!
ラビたん!
ラビッツが踵を返して駆けていく。
俺はたまらずに叫んだ。
「ラビッツ!」
彼女が立ち止まる。
「俺、お前が好きだから! 絶対にお前を振り向かせるから!」
俺は気づいたらゲームにはなかった行動をしていたわけで――もう一度振り向いた彼女は、なぜか無表情だった。
俺をじっと見つめたあとに、また前を向いて走り去っていく。
「青春だな」
ボソッと呟くリュークの言葉に、冷静になる。
「なぁ、リューク。その気のない婚約者に大声で好きだと言われた女ってどんな気持ちになると思う?」
「まぁ、迷惑だな」
「だよな……」
ゲームと同じ台詞を聞いてテンションがマックスに達してしまった。俺はアホだ……婚約者とはいえ、せめてもう少しあいつが俺を好きになってくれないと、迷惑すぎる。
自信はないけど。
「なぁ、リューク」
もう一度、地味に落ち込みながら話しかける。
「なんだよ」
「ラビッツの気持ちを理解したいから、さっきの俺の台詞を同じように叫んでくれないか」
「俺の趣味を疑われるだろ!」
そうだな、想像するだけで気持ち悪い。俺は主人公ではない。これからは気をつけよう。
ん?
あれは? リュークの背後からすごい勢いで向かってくるあれは?
「はわわぁ〜、遅刻遅刻ぅ〜!」
気づいていないリュークは前方の花壇をよけるように大きく右へずれた。俺はブロックに飛び移る。
リュークにだけ激突だ。
「ぐえっ」
やはり来たか……メインヒロインのルリアンだ。
「はわわわ。だ、大丈夫ですかぁ〜?」
薄い金髪でふわっふわの肩までの髪に、ピンクのリボンをつけた青い瞳のヒロインだ。ゲーム通り、リュークは体当たりをされてずっこけている。
「いてぇ……」
「リューク、お前騎士のくせになんで攻撃を食らってんだよ」
「後ろから不意打ちを食らうとは思わねーだろ!」
普段ならよけられたと思うが、そこはゲームの強制力か。まさにゲーム通りのヒロインとリュークの会話が始まる。
「ごめんなさい。あの、でも、私急ぐので! 行きますね!」
「おい、まだ入学式まで時間はあるぞ」
「私、挨拶をしないといけなくて。実はちょっとした打ち合わせがあるんです」
「は?」
「首席さんなんですよ、私。ルリアン・ウィービングと申します。ルリルリって呼んでもいいですよ」
「呼ばねーよ」
「あは、残念。では行きますね!」
きたー! 同じく、オープニング曲でのキャラ紹介にもあった台詞!
『ルリルリって呼んでもいいですよ』
きましたよ、コレ。
ああ、俺――本当にあのゲームの中にいるんだな……!
「ニコラ、お前だけ避けやがったな。ルリアンだっけか、首席だってな。お前、あれに負けたんだな」
リュークがもう小さくなったルリアンの背中を親指で指しながら、やれやれとため息をついた。
「うるせーよ!」
王子だから首席狙いでめちゃくちゃ勉強させられた。ゲームでもルリアンに首席をとられていたから無理だろうと思ったけど、周囲が期待するから頑張った。
そして、駄目だった。
ゲームの強制力には抗えない。少し挫折した。これからも定期テストでルリアンは一位をとり続ける。厳しいことは分かっている。
でも、いつか勝とうと思う。
ゲームの俺と今の俺は違うんだから、可能性はあるはずだ。もし勝てたら、ラビッツも見直してくれるかもしれないしな。才能は前世よりあるわけだし。
よぉし!
転生デビューの始まりだ!
他の攻略キャラの印象的な数々の台詞は、主人公と女の子が二人きりの時だったから俺は聞けないな……と思いながら、ホールへとまた足を踏み出した。
――ピコン。 スマホの通知音が鳴った。 心臓が跳ねる。通知のアイコンには、小さな「①」。……ダイレクトメッセージだ。 誰からだ? フォロワーはまだ十人もいないのに。 俺がSNSを始めて三日。 名前は『転生人』。バナーには『平均身長を超えた』とデカデカ書いておいた。実際に今の俺の身長は、平均を超えている。これはもう間違いなく遺伝の影響だろう。親に感謝だ。 アイコンは、さっき変えた。 ウサギのフリー素材にしていたものの、オリジナルの「平均身長を超えたTシャツ」が届いたからだ。それを写真で撮ってアップした。 プロフィール欄には、いかに俺があのゲームを愛しているかを熱く語り、最後にこう書いた。 「こちらはニコラ×ラビッツを愛でるためのアカウントです」 昨日、『#今日も可愛い俺の嫁ラビッツ』というハッシュタグをつけて、二コマ漫画を投稿した。 一コマ目には「俺、もう我慢できないんだ!」と叫ぶニコラ。その背景に「キスしたいキスしたい」と心の声を並べた。二コマ目には「婚前交渉は駄目だからっ!」と真っ赤になって慌てるラビッツ。 憂いが晴れ、明るい未来を誓い合った、あの日のひとときだ。 もちろん、固定にした。 俺がかつての記憶を思い出したのは偶然だ。たまたまあのゲームのイラストを目にしたから、プレイした。あれを見ていなかったら何も思い出せないままだった。 今の彼女に偶然会えたとしても、俺のことを覚えていない可能性の方が高い。そのまま、すれ違ってしまう。 もし思い出してくれたなら――、俺との再会のきっかけになりますようにと。そう願って、アカウントを開設した。 震える指で、画面をタップする。 ▷はじめまして。漫画、見ました。私はあのゲーム、もう一つのアナザーストーリーがあってもいいと思っています。リュークとセイナが結ばれる未来。あなたは、その未来を知っていますか? 読んだ瞬間、頭が真っ白になった。「……ラビッツ……?」 名前を呼んだ途端、涙がぶわっと溢れた。必死に拭っても止まらない。 震える指で文字を打つ。▷知っています。セイナは天に還ったあとにもう一度あの世界へと現れ、ラビッツがセイナを義理の妹にしてくれて、彼らは結婚した。 すぐに、返事が届く。▷ニコラが動いてくれたから。「ラビッツだ!!!」 思わず叫んだ。 胸
私がおばあちゃんの歳の離れたお姉さん――という関係の親戚の家の片づけを手伝うことになったのは、偶然だった。 高校に入る前の春休み。親戚が集まって、古い家の荷物整理をしていた。「あの子の部屋は二階の突き当たりらしいわ。行ってらっしゃい。私たちはまず、一階を片付けるから」「……うん」 おばあちゃんのお姉さんは、もう八十歳後半。家事をしによくその息子夫婦――つまり私のお母さんの従兄弟とその奥さんがここに来ていたらしいけど、施設に入ることが決まった。旦那さんが入っている施設に空きが出たので、そこで一緒に過ごせることになったらしい。 さっき布団で横になっているそのおばあちゃんに挨拶はしたけど、「元気かい。むかぁし、一度会ったことがあったね。今日は来てくれてありがとね。元気かい。むかぁし一度会ったことがあったね」と同じ話を何十回も繰り返していた。 一番、何度も繰り返す話は一つ。「颯太のね、漫画とか持ってってやって。大事にしてたんだよ。大事にね。でも颯太は男の子だからね。好みが違うかもしれんね。そしたらあの子にあげるからあの、あの――、助けた子にね。トラックから守ってやったんだよ、颯太がね。颯太のね、漫画とか持ってやって。大事にしてたんだよ」 その言葉を、何度も、何度も、涙をこぼしながら繰り返していた。私は黙って頷くことしかできなかった。 気持ちが重いし、遺品だと思うと正直あまり持って帰る気にはなれない。お母さんから「生きていた時のあの子の痕跡を残したいって気持ちが強いみたい。一冊でも選んでくれたら、たぶん気が済むと思うから」と説得されてここに来た。お母さんの従兄弟の子供はもう成人しているし、家も近いからという理由で、私にその役目が回ってきたというわけだ。 トントンと階段を上り、二階の部屋へ。 扉をギギィと開ける。 静かな、少し埃っぽい空気。 机の上には古そうなタブレットや勉強道具。 クローゼットには、学校の制服。「……本当に、そのままにしてたんだ」 どこか、懐かしい匂いがした。 理由は分からない。本の匂いかもしれない。なぜか胸がざわついた。 たくさんの漫画がギッシリと本棚に入っている。古いパソコンも置いてある。すぐ横には、ヘッドホンとゲームと、その設定資料集……? その表紙を見た瞬間――胸がドクンと鳴った。『星が空へと昇る世界で 〜L
春休みも残り一週間。 俺――白石|晴真《はるま》は、鏡の前で決意を固めていた。「よし……高校デビュー、完璧に決めてやる!」 笑顔の練習、髪のセット、完璧だ。本番もこの調子でいこう。……なぜか母さんが廊下から覗いている。「晴真、今日はどこかに行くの?」 「行かない。これから惰眠を貪るところだよ」 「そう……。さすがに入学式では整髪料をつけないでよ」「最初が肝心なのに」「まったく。お母さんの椿油を貸してあげるから」「仕方ねーなー。入学式はそれで我慢するか」 ばばくさい。と思っても言わない、やさしい男なのだ、俺は。 ――ガチャリ。 玄関の扉の音がする。「おーい晴真。大量の漫画をもらって来たぞー」「やったぜ」「あら、惰眠を貪るんじゃないの?」「漫画のが大事だ」 父さんは昔、幼い頃にトラックにひかれそうになった。それを男子高校生が助けてくれたという。その人は亡くなり――、毎年、父さんは線香をあげに行っていた。そのご両親も高齢になり、家を処分することになって、「あの子の遺したものを息子さんに」と譲ってもらったらしい。 遺品だと思うと少し怖いものの、漫画は読みたい。読み終えたら、父さんの部屋に置いといてもらおう。「まだまだあるぞ。車に積んである。一緒に運んでくれ」「マジか」 漫画好きの男子高校生だったのかもしれない。目の前で小さな子がトラックにひかれそうになっていたとして、俺に助ける勇気は正直、ないと思う。 漫画好きの、すごい人だったんだな……。 しばらく父さんと一緒に段ボールを運び込み――。「すごい量だな……」「お前の春休みが潰れるな」「望むところよ!」「特に面白いのは、父さんに教えてくれ。読みたいからな。あ、汚すなよ」「もちろんだよ。化けて出られたら困る」「……化けて出てくれたら、お礼が言えるんだけどな」 父さんの声が少しだけ沈む。 今のは失言だった。「申し訳ありませんでした」と心の中で父さんの命の恩人に謝る。それから、早速ひょいひょいとカッターナイフを持ってきた。「……開けてみてもいい?」 「まったく、開ける気満々だろう。いいぞ」 テープを切ると、やや黄ばんだ漫画がぎっしりと詰まっていた。折れもなく状態はいい。几帳面な人だったんだろう。 うむ。これはいい品揃えだ! 読んでみたかった昔の大ヒット作が
授業も始まり、セイナがいるのも当たり前となり、日々の流れが少しずつ落ち着いてきた頃。俺とラビッツは湖へと足を向けた。 春の光が水面に反射し、柔らかな風が俺たちを包む。二人だけの静かな時間だ。誰かが来てもいいように、木陰で人目を避ける。「ラビッツ、ありがとな。いろいろ」「なによ、あらたまって」「たくさん助けられたなって」「そんなの……私だって」 ラビッツの左手の薬指には、いつも通り俺のあげたビーズリングがはめられている。決して高価ではないのに、大切にしてくれているのを感じる。「手、繋いでいいかな」「……っ、皆の前では繋がないんだからねっ」「分かってる」 俺がどうしてここに来たか。 それは、秋から一度もしていないキッスをしたいからだ!!! と、叫びたいけど叫べない。 ムードづくりゼロ点と言われるのが目に見えているからな。一応、木陰まで来るのも拒否はされていないし、俺の気持ちを察してくれている……のかもしれない。「ほんとに感謝してるんだよ。今を迎えるために、ラビッツにはたくさん支えてもらった」「……あんた、よく泣いてたもんね」「涙腺弱いんだよ! 悪いかよぅ」「私も弱いし。悪くはないわよ」 リュークとセイナが想いあっていることに気づいてから、どうしても耐えられず……ラビッツと一緒にダンスを練習したあの部屋で、実はよく泣いていた。俺が「あとから寮に戻るよ」と言って離脱するとラビッツもついてきて――、一緒に泣いていた。 はー……、かっこ悪い。 いや、ここでしょぼくれてはいけない。そう、今こそムードづくりをすべき時なんだ。「俺、もうほんとに何度も何度もラビッツのことが好きだと思って。暗くなりそうな時にも明るい気持ちにさせてくれるしさ」 ラビッツの顔がだんだんと赤くなる。「笑った顔も、怒った顔も、拗ねた顔も、全部大好きだ。全部愛しているんだ」「う、うん」 ラビッツの両肩に手を添える。「ほんとにさっ、すごくすごく好きでっ……」 我ながら語彙力が消え失せている自覚はある。可愛いラビッツを見ていると、頭がおかしくなる。「ずっと我慢してた。今はそんな時じゃないって。先のことを考えて辛かったのもあるけど、やっぱりラビッツのことが好きだから何もしないのも辛くて」 語彙力皆無だな!? 気持ちは伝わってると信じよう。「ま、待って。落
「それでは、あらためましてセイナちゃん、戻ってきてくれてありがとうございます!」 ルリアンの言葉に皆がわーっと拍手する。 今は始業式が終わり、パトロール隊の部屋へと皆で集まったところだ。 始業式のあとは、セイナはしばらく身動きが取れなかった。あっという間に生徒たちに囲まれて、泣きながら抱きしめられたり、手を握られて質問攻めにされたり。「ただいま」と笑って返すセイナの姿に、あぁ、本当に戻ってきたんだと誰もが実感していた。 そして今。 セイナは再び、仲間たちと共にここにいる。「ありがとうだよぅ。皆待っててくれて、安心しましたっ。それに、授業も履修登録されていてびっくりです」 選択した履修登録表は、全員がさっき受け取ったばかり。ルリアンと同じ授業がとれるように、俺が休み前に学園へ頼んでおいた。 授業は明日からだ。「もうっ、また丁寧語に戻ってるわよ。緊張しないで」 ラビッツもにこにこと嬉しそうだ。「うぎゅぅ。実は少し記憶にあやふやなところがあって……だから緊張するの。皆のことが大好きって思いは強いんだけど」「はわわ。じ、実は私もです。セイナちゃんが大好きって気持ちは強いんですけど」「……私もそう」「にゃーは結構覚えてるにゃん。ただ、オリヴィアにゃんは……」「ええ。残念ながら、私も記憶にあやふやなところがあるわ」 やっぱりそうか。 思念品の場合は、本来もうなかったものだからか、そのもの自体の記憶は浄化するとあやふやになる。俺も、ラビッツとのラッキースケベなアレコレの記憶は鮮明に覚えているものの、ベッドの色や形は既に朧げだ。 思念品ではなく思念体側も、そうなのかもしれない。 ただ……セイナのことを俺はまだ鮮明に覚えている。ラビッツも、何も言わないということは覚えているのだろう。理由は分からない。この世界とは別のところで彼女を知っていると、そうなるのだろうか。 リュークが穏やかに笑った。「ま、これからいくらでも時間がある。忘れられない思い出を、また一緒につくっていこう」 その一言に、ふわっと皆に笑顔が広がった。 ここにいる。 また、皆でいられる。 その実感が、じんわりと部屋を満たした。「初日だし、セイナは二人きりになりたいんじゃない? 遠慮なくイチャイチャしてきていいよ」 ベル子が天井を指さした。 屋上でってことだな。「
少女は、突然そこへと降り立った。まるで長い夢から、やっと目を覚ましたかのように。「ここは……?」 かつて、約束を交わした場所。 少女はその外にいた。 決して出られなかったはずの、門の外側に。 ふと胸に手を当てた。 鼓動が聞こえる。 懐かしい命の息吹が、そこにある。 ——みんなが、呼んでいる。 少女を縛っていたはずの門。 その向こう側には、光がある。 皆の笑顔が。 楽しかった時間がそこにある。「行かなきゃ」 一歩、また一歩。 少女は駆け出した。 髪が風に舞い、真新しい制服の裾がひるがえる。春の空気が、やさしく頬を撫でた。 校舎が見えてくる。 鐘の音が響く。「——待ってて」 みんなはいるだろうか。 わずかな不安と期待。 息を切らしながら、涙が滲む。 ――会える、会える、また会える! 少女は走り続ける。 薄い水色のツインテールを左右に揺らしながら。黄色いリボンをぴょんぴょんと跳ねさせて。「セイナ・ラミエルさんですか」 やや興奮した様子の職員に話しかけられた。「は、はいっ」「ホールで始業式が行われています。着きましたら、そのままお入りください」「はいっ! ありがとうございます!」 ひたすら走る。息が切れても足は止まらない。ホールの前に辿り着くと、またも職員さんが涙ぐんだ顔で立っていた。「……セイナ・ラミエルさん、ですね」「はいっ」 職員は深くうなずいた。「行ってください。今は学園長の話の最中ですが、どうぞ遠慮なく中断していただいて結構です。そう承っています」 少女の胸がどくんと跳ねる。 ――みんな、待っててくれたんだ。 両手を胸の前でぎゅっと握る。 涙をこらえて、小さく息を整えた。「行って……きます」 少女はゆっくりと一歩を踏み出した。重厚な扉の前に立ち、取っ手に手をかける。冷たい金属の感触が、今この瞬間が現実なのだと伝えてくる。 小さく呟く。「——ただいま」 扉を勢いよく開いた。 目を見開いた生徒たちの視線が、その少女に注がれる。学園長が言葉を失い、そして――、「セイナッ!!!」 リュークの声がホールに響いた。 誰もが道を開け、リュークは彼女の元へ一直線に向かう。 ――どれほど、この瞬間を夢に見ただろう。 何度、届かない空を見上げただろう。 今は見えないその光を探すよ